@article{oai:mie-u.repo.nii.ac.jp:00012898, author = {新田, 貴士 and Nitta, Takashi and 中野, 正孝 and Nakano, Masataka}, journal = {三重大学教育学部附属教育実践総合センター紀要, Bulletin of the Integrated Center for Educational Research and Practice Mie University}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 教育とは教え育てること、教えるとは狭い意味では学問を教えることと解釈される。デカルトに始まる科学的考え方は、肉体と心は分離可能という仮定をおき、それまでの学問を純化することで科学を生んだ。化学、天文学や物理学は、錬金術、占星術をその母体とし、科学の中で大きな発展をした。近世に入り、微小な粒子の運動を調べるに至って、その前には、量子力学の観測の問題という、深刻な壁が立ち塞がることとなった。人類は粒子性と波動性を兼ね備えた概念を模索し、さらに広がった場そのものを扱う場の理論を発展させ、数学の集合論や関数解析に大きな影響を与えた。一方、第一次大戦の深い反省から、ハイデガー等の実存哲学者は生命の問題に踏み込み、また、心の問題を扱う中で、ユング等は深層心理の中にある集合的無意識を抉り出した。それら物理学、数学、哲学、心理学の様々な説はそれぞれ一見、全く別のことを表現しているかのようにも思われるが、古来の古典的哲学の枠組みの中でもう一度、それらを体系的に捉え直そうという動きがなされている。ところで、我々の身のまわりを見てみると、最近様々な医療が展開されており、人々に多大な恩恵をもたらしている。近年それらの医療について、少し立ち止まって、そのあり方や健康とは何かなどを中心に再考しようという試みがなされつつある。このことは教育とも深く関係する。本稿では、様々な医療の新旧やテクニックの優劣を論ずるのではなく、やはり古典的哲学の枠組みの中で、その根本となる、いったい"人"とは何であると考えているのかというその定義の相違に基づいて、医療の意味について論じたい。考え方としては集合論的に、進め方としてはプラトンのパイドンに倣い対話形式で論じていきたい。}, pages = {33--40}, title = {3種の“我”と3種の“医療”}, volume = {35}, year = {2015}, yomi = {ニッタ, タカシ and ナカノ, マサタカ} }