@article{oai:mie-u.repo.nii.ac.jp:00013870, author = {菅, 利恵 and Suga, Rie}, journal = {人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要, Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics}, month = {Mar}, note = {application/pdf, ハーバーマスの近代化論は、親密な愛の領域を基盤とする「人間」や「人間性」の観念が、市民的な言説空間において一種の戦略的な機能をもったことを明らかにしている。すなわち「財産と家人の所有者」である「市民」が、自らを「人間」として、つまり社会的な制約から自由な主体的な感情の担い手として自らを理解し表現することで、「市民」としての階級的、経済的な利害も個人的自由への人間的な要請と同一視され、彼らの言葉や理念に「公益の仮象Schein des Allgemeinen」が与えられることになったのだという。当時文芸公共圏では親密な領域を舞台に「人間的」な関係性が盛んに描かれたが、それは「市民」と「人間」の同一性を強調することによって上の過程を支えるものであった。 このように感傷的な愛の表現を通して「人間」としての自己表現が展開し、それを足がかりにして市民的公共圏が形成された時代にあって、J. M. R. レンツのテクストは、そうした時代の流れにまったくそぐわない側面を有している。本稿では彼の短編『ツェルビーン』を紹介する。そこで彼がいかにして「市民」から「人間」としての顔を剥ぎ取ったのかを追いながら、このテクストが市民的公共圏において持った独自性と意義を明らかにする。 『ツェルビーン』においては、入り組んだ恋愛物語を通して、市民知識層に属するひとりの若者が、「市民」としての存在形態と「人間」としての自己理解を両立させることに失敗する様が描かれている。階級的なヒエラルヒー構造の中で市民知識層が搾取され、また搾取するさまを描いたこの作品は、やがて露呈することになる市民的な言説の欺瞞、すなわち「市民」でありながら「人間」として語ることの否定しがたい欺瞞を、どこよりも早く問題化しつつ、ふたつの両立の重要性を明確に浮かび上がらせるものとなっている。}, pages = {27--39}, title = {「市民」はいかにして「人間」の顔を失うのか ― J. M. R. レンツの『ツェルビーン』}, volume = {37}, year = {2020}, yomi = {スガ, リエ} }