@article{oai:mie-u.repo.nii.ac.jp:00013875, author = {湯浅, 陽子 and Yuasa, Yoko}, journal = {人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要, Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 中唐期以降における科挙出身官僚の増加と社会的位置づけの高まりのなかで、白居易(七七二―八四六)らを初めとする人々によって、知識人の閑居のあるべき姿が模索され、それは閑居の場の造営やそれに関わる詩文での表現といった形で表出された。そのような模索は、さらにその後の北宋期の科挙出身者を中心とする文人官僚においても継承され、表出され続けたが、それぞれの世代において、その時々の時代背景とも関わりながらその発想を少しずつ変化させていったと思われる。本稿は、その生涯を通して、歐陽脩・蘇軾らの世代のみならず、さらに後の世代である黄庭堅をはじめとする所謂「蘇門四學士」とも強い繋がりを持ちつづけた孫覺(一〇二八―一〇九〇)とその寄老庵を焦点とし、彼らを取り巻く人々のつながりを考える。孫覺は当時の多くの保守派の官僚達と同様に、若年期に胡瑗のもとで学び、進士科及第を経て中央ならびに地方の官職を歴任し、高位に至った。またその間には、史書の改訂作業に加わり、晩年には哲宗の侍講、知貢舉を担当するなど、当時においてその学識が高く評価されていた。 孫覺は故郷の高郵で喪に服していた煕寧九年八月に烏江縣の温泉を訪ねているが、同行者であった秦觀が翌年に制作した「遊湯泉記」は、孫覺はこの旅の中で見つけた景色の良い場所に自分の引退後の閑居を設けることを決めたと記している。孫覺が設けた庵の「寄老」という名は白居易詩の「寄老慵」を意識するものであり、この寄老庵には、孫覺、秦觀、釋道潛(參寥)、黄庭堅、劉攽がかなり長い時間を隔てて詩文を寄せている。 孫覺が草庵設置の許可を得た際に作成した「顯之禪老許以草庵見處作詩以約之」詩、及びこの作品に対する秦觀「再用韻」詩・釋道潛「次韵莘老贈顯之」詩は、いずれも詩中で「寄老」に言及しないが、翌煕寧十年に秦觀が「游湯泉記」とともに制作した「寄老庵賦」は、失意の退隠であることを暗示しつつも、寄老庵で行われる閑居がいかに高遠な境地にあるかを『荘子』を踏まえて説明している。この時点での寄老庵は、孫覺が将来の隠退生活に備えるためのものであり、秦觀は将来の孫覺に予想される理想の閑居を描いている。その後の元豐五年に劉攽が寄せた「寄老庵記」は、蘇軾の烏臺詩案に連座した罪を問われた処分から回復した頃に制作されたものであり、寄老庵を、政府内での緊張から逃れることのできる、将来の隠退生活のために賢明に準備された場所として描いている。またさらに六年後の元祐三年に、知貢舉であった孫覺の依頼により黄庭堅が代作した「寄老庵賦」は、「智」を用いず「愚」に帰り、「德」を保つ存在こそ「斯文」を体現するものであるとする。元祐五年に亡くなった孫覺を悼む秦觀「孫莘老挽詞四首」其一は、彼の晩年は不遇だったのではなく、言葉を忘れる道家的な理想を表す境地を得たと述べるが、これは黄庭堅「寄老庵賦」の言う境地と相似たものとなっており、秦觀・黄庭堅は孫覺の晩年に閑居の一つの理想的なあり方を見たのではないかと考えられる。}, pages = {1--15}, title = {寄老庵によせて ―ある北宋文人の閑居をめぐる詩文―}, volume = {37}, year = {2020}, yomi = {ユアサ, ヨウコ} }