@article{oai:mie-u.repo.nii.ac.jp:00014643, author = {村上, 直樹 and Murakami, Naoki}, journal = {人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要, Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 人間は、〝知覚する〟存在であるとみなされている。人間は、外の世界に関する膨大な情報を目や耳といった感覚受容器を通して脳に入力し、外の世界を知覚していると考えられている。しかし、この考え方には、問題がある。本稿の第一の目的は、そもそも外の世界に関する情報が目や耳といった感覚受容器を経由して脳に入力されているわけではないことを具体的に示していくことである。生きている人間の目の前には、物の世界が知覚的に現われており、そこには無数の情報-様々な物の形、大きさ、色、質感、道具的意味、言語的意味等々-がある。ただ、それらの情報は、そこにあるだけである。人間の体の中に入ってくることはない。人間は、外の世界に関する情報を体の中、脳の中に取り込んで、外の世界を知覚しているわけではないことを、本稿ではまず確認する。続いて、世界の知覚的現われと人間の関係に関する〝私-世界〟一体説の考え方を示す。その際、一般的には情報の受容と処理を行っているとみなされている感覚系と脳神経系の活動に新しい位置づけを与える。〝私-世界〟一体説の考え方によると、生きている人間は、〝知覚する〟ことなく、常にすでに物の世界の知覚的現われの内にある。そして、最後に、人間は〝知覚する〟ことなく、常にすでに物の世界の知覚的現われの内にあるということを、ハイデガーは「人間は世界=内=存在である」という議論で示したとみなすことができるという指摘を行う。}, pages = {41--54}, title = {世界の知覚的現われと一つである人間 ―〝私-世界〟一体説の人間観―}, volume = {39}, year = {2022}, yomi = {ムラカミ, ナオキ} }