@article{oai:mie-u.repo.nii.ac.jp:00015443, author = {林, 英哉}, journal = {人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要, Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 本論文は、ポール・ド・マンのハイデガー批判『ハイデガーによるヘルダーリン釈義』(1955)と『「あたかも祝いの日に…」における時間性の様式』(1967)を分析し、彼がそこで陥った、批判が持つ構造的な限界を明らかにする。ド・マンは、一つ目のハイデガー批判においてハイデガーの方法論を批判するが、彼もまた結局ハイデガーと同じ議論を踏襲せざるを得ず、ヘルダーリンの詩の一面的な解釈に終始する。二つ目のハイデガー批判においては、ド・マンは逆にハイデガーの方法論を徹底することでハイデガーの不十分さを析出するが、またもやヘルダーリンの一面的な解釈に陥ってしまう。これはド・マン自身の過ちというよりも、彼自身が『盲目と洞察』(1971)において明らかにしたような、「読むこと」が必然的に陥らざるを得ない「盲目」を示していると本論文は主張する。}, pages = {61--75}, title = {ポール・ド・マンによるハイデガー批判―ヘルダーリンの詩『あたかも祝いの日に…』をめぐって―}, volume = {40}, year = {2023} }